アクタージュscene105「サイド乙」感想・考察『ラストシーンの演出と救い』
ネタバレあり。未読の方はご注意ください。
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黒山監督のラストシーンの演出
サイド甲と同じように台本を無視したことで、夜凪が泣き崩れたのがトラブルだったと観客には分からなくなりました。これで「サイド甲の初演」「王賀美の日本での役者生命」の二つが救われたことに。まさに一石二鳥。黒山さんナイスです。
サイド乙のラストの解釈はこんな感じで良いんでしょうか。
牛魔王への想いを殺し合いに身を投じることで誤魔化そうとする
→牛魔王への想いを誤魔化すのを止められる
→牛魔王を愛してしまっている自分の気持ちを受け入れる
ただ、今まで「これは、ある一人の女の、嫉妬とも自己嫌悪ともつかぬ、『怒り』の物語」と繰り返し言われていただけに、黒山監督の『「怒り」じゃなくて「救い」の物語だ』というセリフはすぐには受け入れにくいですね…。サイド甲の初演以前は、「羅刹女の怒りの炎をどれだけ大きく燃やせるか」というところに焦点が主に当たっていただけに、「救い」の方へあまり意識が向いていなかったからかもしれません。
千世子の救い
羅刹女と同じ解釈を千世子にも適用すると、「夜凪を愛してしまっている自分の気持ちを受け入れた」ということになるのでは?
このクソデカ感情はやばいぞ…。
花子の気づき
サイド乙の舞台を見て花子さんも何かを察した様子。
羅刹女と同じ解釈を花子さんにも適用すると、「創作という行為をやめずにはいられない自分を認めた」ということになると思います。
もちろん、『どうしてもそれを愛してしまう』の『それ』が指すのが、夜凪父である可能性もあるんですが、回想では中学の頃のクラスメイトとのやりとりも入っているので、その可能性は低いかと。あくまで花子さんの中心にあるものは「創作」だったんでしょうね。
消化不良感
サイド甲の舞台はじっくり15話くらいかけてたのに、サイド乙の舞台はたった4話で終わっちゃいました。渡戸さんと山寺さんの掘り下げが無かったからなのもありますが、何よりサイド甲のような波乱が無かったからでしょう。
良くも悪くも黒山監督の思惑通りの舞台でした。
サイド甲再演の展開予想
「孫悟空が牛魔王に一瞬化けて羅刹女に自分の感情を自覚させる」という解釈は、阿良也のような化ける芝居がなければ実現不可能です。しかし、サイド甲の孫悟空役の王賀美陸は変わらないことが強みの役者です。となると、サイド甲ではラストシーンで別の解釈をする必要がありそうです。
花子さんのそもそもの目的は「不条理な現実への怒りから逃げ出して、思い通りの創作をすること」でした。ということは、次の解釈は、花子さんの心の中の思い通りの演出…ということになるんですが、具体的には予想がつかないですね笑。
サイド甲の初演の「羅刹女が自分は一人じゃないことに気づく」という解釈も結構良い線を行っていたと思うので、基本的には初演の時とあまり変わらないのではないでしょうか。
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